魂(自分自身)の輪郭が
濃くなってきていると、感じている。
今日は、
そんなお話をしたいと思います。
目次
・ 「私は、どう扱われたいのか?」
・ 欲ではなく、輪郭
・ まず、自分はどうしたいのか
・ 「大切にされたい」の正体
・ 自分を、どう扱うのか?
・ 豊かさの基準が変わるとき
・ 大きく変わらなくていい
・ 愛と我慢を、混同しない
・ 「嫌われない私」より、「私が好きな私」
・ 輪郭が濃くなるほど、世界が変わる
目次を開く
「私は、どう扱われたいのか?」
最近、自分の中で少し
不思議な変化が起きている。
以前よりも、
「これは嫌だ」
「こうしてほしい」
「これは譲れない」
という、自分の中の
“快・不快”が、
ものすごくはっきりしてきた。
今までであれば、
「相手には相手の価値観がある」
「まあこういうもんだし仕方ないか」
「ジャッジされるくらいなら合わせよ」
「これ言うと常識ないと思われるかなあ」
こんなふうに、
無意識に自分の感覚を
後回しにすることがあったり、
そもそも
そんなことも感じられないほど、
自分の内側が
ごちゃごちゃしてた感覚だった。
色んなものが入ってて、
どれが自分の意見か
わからなくなるというか。
でも最近は、
我慢ができなくなってきたというか、
意思がはっきりしてきたというか。
自分不在だったところから、
自分がニョキニョキと顔を出してきた?
そんな感覚を覚えている。
欲ではなく、輪郭
最初はこの変化を
上手く言語化できなかった。
以前よりも要求が
多くなった?強くなった?
ようにも感じるし、
以前なら許せていたことが、
許せなくなっているような感覚。
「私、何がそんなに嫌なのか」
「自分、こんなにわがままなのか」
と思うことも
ちょくちょくあったり。
でも、よく考えてみると、
欲が強くなったというより、
自分の輪郭が濃くなった
のかもしれないと
気づいたわけです。
自分が何を望んでいるのか。
何を大切にしたいのか。
どんな扱いを受け取ると嬉しいのか。
逆に、
どんなことをされると、
自分という存在が
埋もれていってしまうのか。
それが、以前よりずっと
顕著になってきた感じがする。
私はこれまで、
「相手がどう思うか、どう感じるか」
に、意識を
向けすぎていたのかもしれない。
ジャッジされないだろうか。
見捨てられないだろうか。
愛してもらえるのだろうか。
これを言ったら
相手はどう反応するだろう。
面倒くさい奴だと思われたくない。
常識がないと思われたくない。
そんなふうに、
「相手にどう、受け取られるか」
を基準に、自分の判断が
揺らいでしまうことがよくあった。
でも今は、少しずつ
それが変わってきたというか。
反対の意見を持つ人を
怖いと思う気持ちが、
前よりも少しずつ減ってきたのだ。
まず、
「私は、どうしたい?どう在りたい?」
って、
自分に聞いてあげること。
相手が
どう受け取るのか、どう判断するのかは、
その次の話なのよね。
まず、自分はどうしたいのか
これは決して、
「わがままに、生きろ」
という話でもなく。
相手には、相手の価値観があるし、
相手には、相手の世界観がある。
その前提の上での話で、
相手が私の価値観や望みを
理解しない、受け入れない自由だって、
もちろんあるのよな。
だから、
「私は本当は、こうしたい、こう思ってる」
「こういう価値観の中で、生きたい」
と思ったときに、
「相手がわかってくれない。
どうせ、わたしのことなんて
誰も理解してくれないんだ。」
と、拗ねて終わるのではなく、
「私は、こういう生き方や関係を望んでいる」
という、
自分の望みをまずは明確にしていく。
そして、
「私は、こうで在りたい。
でも、相手には相手の価値観や自由がある。
もし相手が
それを望まないのなら、私はどうしたい?」
そこまで含めて、
自分の人生の自由を、責任を
自分で引き受けていくこと。
誰かや何かに、明け渡さないこと。
これは、
ものすごく大きな違いだと思う。
「相手の価値観を変えること」や、
「相手の世界観に合わせること」に、
躍起になるのではなく、
「私は、こういう世界を生きたい」
と、決めるだけなんだよね。
「大切にされたい」の正体
最近、私の中で
特に強くなっているのが、
「大切にされたい」
という感覚だったりします。
「誰かに大切にしてもらいたい」
という、他人への要求なのだと
初めは錯覚しそうになるんだけど、
少し視点を変えると、
別の気づきやメッセージが見えてくる。
私は、
「私という存在を、
価値あるものとして、丁寧に扱ってほしい」
のだと思う。
もっというと、
表面的なものでなく、
そこにある繊細な
「思いや背景」も丸ごと含めて、
わたしという存在の価値を深く、理解されたい。
表面的に
満たされていることと、
自分の存在そのものを
丁寧に扱われていると感じることは、
全く別物なのだ。
それに気づいたとき、私はふと、
「私は今まで、自分自身に対しても、
同じような扱いを許してきたんじゃないか」
と、いたたまれない気持ちになった。
本当は、
もっと丁寧に向き合って欲しいのに、
雑に扱われることを許してしまう。
本当は嫌だったのに、
遠慮して我慢してしまう。
本当は時間をかけて欲しいのに、
相手に申し訳ないと感じてしまう。
本当は疲れているのに、
無理して相手の予定に合わせてしまう。
本当は欲しいのに、
どうせ無理だとハナから諦めてしまう。
でも今は、
「もう、それを自分に許したくない」
と、強く
感じるようになってきていて。
過去の自分を
否定するわけでもなく、
ただただ時間が経つにつれ、
自分への理解度が深まり、
人生の基準や価値観が
変わっていってるだけなのだよな。
自分を、どう扱うのか?
最近自分に、
問いかけていること。
「私は、どんな扱われ方を、自分に許すのか?」
これは、
「他人に、どう扱われるか?」
という話ではなく、
「私は、自分自身を
どんな存在として認識し、扱うのか」
という問いなのだと思う。
自分自身の価値を、
本当に信じているのであれば。
自分を雑には扱わないし、
自分の才能を、安売りしたりもしない。
自分の心や身体を、後回しにはしないし、
自分の望みを、無視したりもしない。
自分の人生を、誰かに委ねたり、
決めてもらおうともしない。
仕事とかでも、
同じことが言えるよね。
「これをしないと集客できない」
「これをしないと売れっ子になれない」
「誰にでも適合しなければ」
「しっくり来ないけどこれでいっか」
「相手に合わせて、何でも提供するべき」
そんなフェーズを超えて、
「私はこれを、価値として提供したい」
「この世界観を、本当に望む人に届けたい」
「私はこの価格で、自分の時間や命を使いたい」
「私は、こういう姿勢の人と仕事がしたい」
と、主体性を持って、
望む世界を決めたっていいのよね。
「あなたのような人を探していた」
「あなただからお願いしたい」
そんな風に言ってくれる人と、
出会っていきたい。
それは、決して
傲慢になることではなく、
自分の価値を、
ちゃんと自分で理解すること
なのだと、感じます。
豊かさの基準が変わるとき
私は今、
仕事や収入についても、
一つ上のフェーズに
進もうとしている感覚がある。
というか進んでいる。
例えば、
年収1,000万円の人が
1億円を目指すとしたら、
単純に、
「今までの10倍働く」
という話では、ないわけよね。
「自分の命を、どう使うのか?」
働き方も、時間の使い方も、
人との関わり方も、自分の存在定義も、
「何を採用し、何を採用しないのか?」
という基準や価値観全てが、
変わっていく必要があるのだと思う。
だからこそ、
人生のステージが変わるときには、
それまでなら
気にならなかったことが
急に問題として浮上したり、
強烈な違和感として
感じるようになることも
あるのかもしれない。
今までなら、
「経験になるしな」
くらいに思えていたことが、
「私は、この扱いなら
関わりを持ちたくない」
と、はっきり変わっていくような。
今までなら、
「とにかく、必要とされることが嬉しい」
だったものが、
「私も、生きる世界や相手を選びたい」
に変わっていく。
自分の輪郭が、境界線が、
どんどん明確になっていく。
大きく変わらなくていい
人生のステージを変えるとき、
ここでついつい、
「何か大きな決断やチャレンジをするべきか」
「大きく自分を変えなければいけないのか」
そう思ってしまうことってある。
わたしも沢山ある。
もっと発信しなきゃいけない。
もっと行動しなきゃいけない。
大きなことを始めないといけない。
でも本当はむしろ、
逆なのではないかと思っている。
必要なのは、
何かを付け足したり、
壮大な計画を一気に
実行することでもなく、
自分にとって
「不要なもの、残すもの」
を、判別することだったり、
日常の小さな選択の中で、
「私は私を裏切らない」
を、積み重ねていくことだったり。
一つ一つ、
細かく丁寧に
思いを聞いてあげたり、
日常を過ごすことかもしれない。
雑さを、減らすこと。
雑に扱われるって、嫌じゃない?
自分が自分にそれを、
やってるかもしれないよ。
「本当は嫌だけど、我慢すればいいか」
「本当はこうしたいけど、こんなもんでいっか」
を、一つずつ、減らしていく。
他人からの評価でなく、
自分からの信頼や評価を下げないことだ。
「これくらいなら我慢できる」ではなく、
「私は本当は、どうしたい?」
その一つ一つが、
自分の人生を、
自分に戻していくのかもしれない。
私にとって今の時期は、
「風呂敷を大きく広げる」というより、
自分の基準を作り直す時期
なのだろうなと、
ヒシヒシと感じています。
愛と我慢を、混同しない
好きだから我慢する、でもない。
嫌なところがあるから、全部否定する、でもない。
仕事も恋愛も人間関係も、
全て、同じなのだと思う。
誰かを大切に思う気持ち。
感謝する気持ち。
その人とのご縁が
心から大切だなと、感じる自分。
それと同時に、
「これをされるのは嫌だ」
「ここだけは、譲れない」
「私はこういう関係がいい」
と、思うことも自然で、
それを自分に許しても、いいのよね。
好きだから我慢する、でもない。
嫌なところがあるから全てぶった斬る、でもない。
その真ん中にある、
「あなたのことは大切。
でも、私はこういう関係を望む」
という場所に、立っていくこと。
相手がそれを
どう受け取るかは、相手の領域。
理解されるかもしれない。
理解されないかもしれない。
受け取って変わるまでは、
時間がかかるかもしれない。
でも、そこで初めて、
「じゃあ、私はどうする?」
を自分で選んでいいのだ。
それは、
相手をコントロールすることより、
ずっと自由なことで、
願いの具現化を
グッと早める秘訣なのだと感じる。
「嫌われない私」より、「私が好きな私」
今までの私は、
「自分らしく生きる」ということを、
もっと派手なことだと、
イメージしていたのかもしれない。
何か大きなことを成し遂げたり。
誰にもできないことをやったり。
でも今は、
ちょっと違う感覚というか、
もっと静かで穏やかで、
優しさの中に、
強さが同居するかのような感覚。
「私は、私の人生を、
誰の許可もなく生きる。」
誰にでも好かれるための私ではなく、
私が好きだと思う私。
誰かに決められる私ではなく、
私が主体性を持ち、人生を選べる私。
我慢を美徳とする私ではなく、
望みにきちんと気づいてあげられる私。
表面的な成功や幸せ、ハリボテの私ではなく、
自分の命を最大限に引き出せている私。
その結果として、
何を仕事にするのか、誰と生きるのか、
どこに住むのか、どれだけ稼ぐのか、
何を受け取るのか、何を手放すのか。
それらが、決まっていく。
「成功するために、自分を変える」
のではなく、
どちらかというと、
「自分に戻った結果として、
成功という背景や形がついてくるだけ」
というのが近いのかな。
それが、
私がずっと伝えてきた、
「現実創造」の
"本質"なのかもしれない。
輪郭が濃くなるほど、世界が変わる
自分を生き始めると
もしかしたら、
以前より人に
妬まれることもあるかもしれないし、
嫌われるかもしれない。
合わない人が
はっきりするかもしれない。
今までなら続いていた関係が、
終わってしまうこともあるかもしれない。
でも同時に、
以前なら
出会えなかった人と、
出会えるようになったり。
以前なら
受け取れなかった愛を、
受け取れるようになったり。
以前なら
怖くて手放せなかったものを、
手放せるようになるかもしれない。
そして何より、
「自分を裏切らない」という安心感
が、自分の中に積み重なっていく。
誰かに愛されるために、
自分らしさを消さなくていい。
私は、私のままでいいのだ。
そして、
「今までの私」でいる必要もない。
価値観は、
ステージが変われば
どんどん変わっていくものだし。
古い自分を握りしめなくていい。
もっと望んでいいし、
もっと受け取っていい。
もっと豊かになっていいし、
もっと自分の才能や命を使っていい。
そのために必要なのは、
「さらに頑張ること」ではなく、
むしろ、力を抜き、
要らないものを脱いでいくことだ。
「私は、本当はどうしたい?」を、
何度でも自分に問い続けること。
そして、その答えを、
小さな日常から一つずつ、
現実に落とし込んでいくこと。
自分の輪郭が濃くなるほど、
人生は、自分のものになっていく。
私は今、
そんなことを深く
追求している日々です。
]]>





